無を許容したい
20210829
3日目にしてこの時間に前日の日付が付いた”日記”を投稿しているので、本当に三日坊主と言うやつでこの企画も終わるのかもしれない。
いや、もう少し頑張って欲しいが。
今日は何をしただろうとTwitterを開く。
私は全てをTwitterに書き込んでいるのでツイートを見れば1日何していたかが分かる。ツイートが無い時間帯があればTwitterを見ていないような用事があったんだろうなと逆説的に思い出せる。何?終わりの人間過ぎ。
10時間くらい睡眠をし、14時に目覚めその後2時間くらいグダグダした後、御台場の舞台( 昨日の日記を参照)が千秋楽だったのでソワレをTwitterでめちゃくちゃ言いながら実況してたら何だかんだ19時になっていたので久々に自炊をし、22時のアフターライブ(プロジェクトセカイというソシャゲのインゲームイベント)まで読んでいなかったイベントストーリーを読み、その後友人に誘われたのでVALORANTをプレイしながら通話していたら8時間ほどが経過しており、今に至る。
何もしてなさ過ぎる。
正確には上記の全てが「Twitterを見ながらソシャゲするかアプリで漫画読んでるかどうでも良いYoutubeの動画見てたら終わった」に置き換えられる日も存在するわけで、そう言った日に比べればはるかに充実した1日だったと言えるだろう。オタクもやってるし、友達と遊んでもいる。余談だが僕は友達が少ない。
ただ生産性にまるで欠けたスケジュールなのも確かだ。
舞台鑑賞と言う行為を行ってはいるが、既に観た物を再度観て、どっちかって言うとタイムラインの人間と悪ふざけがしたいから見直したと言っていいだろう、いや、見直すつもりはあったけども。
友達とゲームやって楽しむ、と言うのも別に悪い事ではないだろう。社会性を持つことは重要だし、シンプルに楽しいので良い。グラブルで編成試しながら周回してたより100億倍マシだ。
しかし無は無なのである。
いわゆる”無産のオタク”を馬鹿にするつもりはないし、俺自身無産なので何も言えないが、”有”のオタク行為とは全く別に、例えば新しい物語に触れてみるだとか勉強をするだとかそう言った行動もまるでしていない。
積読や積みアニメやら積みゲーやらいっぱいあるので、それらに触れるだけでも”有”になった気分になれるだろうし、テキストエディタを開いて書きかけの小説の、或いはプロット部分にだけでも手を加えてみればそれはもう非常に大きな”有”を感じられるだろう。んなこた分かってる。
でもまた今日も無で終わるのだ。
今は夏季休暇と言うやつで、もう5日もすれば新しい学期と言う物が始まるので、今は本当に無でもいい日だし、学期が始まって講義を受けているならそれ以外の時間が無になったとしても構わないはずなのだが、いざ無になってみると激しい後悔のような物に襲われたりもする。ただその後悔は先にも後にも立ちはしない。その結果が今日なのだから。
とは言え無でもいいはずなのだ。
人間生きているだけで偉い。
それは俺の創作を待ってる人間は誰もいないから意味ないとか、別に知識量が増えたからって何かあるわけじゃないじゃんとかそういう話ではなく、シンプルに”そう”なんだと思っている。し、他人に上記のような事言われたらそう言うだろう。
でも己の事となると難しい。
難しいな、難しくて、辛い。
何もしていなくても今日も生き延びて偉いな~と感じたい。
”無”な自分を許容して、許したい。
では。